12 年 8 か月。 私たち家族が、ダルクにつながるまでにかかった時間です。いえ、本当はも
っと長い時間が、かかっていたのでしょう。本人の異常に気づかなかっただけで、本人は、いっ
たいいつから病気になっていたのか。どんなきっかけだったのか。それは、いまだに不明です。

 平成 16 年 1月 16 日、職場の同僚の積立金を使い込みしたことが発覚し、これが本人の異変
異変を知るきっかけとなりました。しかも、さらに借金もあると書置きを残し、音信不通となり
ました。

 程なくしてサラ金や知り合いから返済を求める連絡がたくさん来るようになりました。弁護士
の指導のもと、本人が行方不明のため返済できない旨の手紙を送りましたが、サラ金からは毎日
毎日電話で脅かされました。本人の父親は、うつ病を発症してしまいました。

 行方知らずになってからも、本人は問題行動を起こし、私たちは振り回されていました。タク
シーの無銭乗車、万引き…。ここに書き切れないくらい、思い出したくないくらい色々なことを
しでかし、そのことの尻拭いに関わっていました。夜中にガムテープでぐるぐる巻きにされて連
れて来られたこともありました。偽物の薬物を売って、それを購入した人が返金を求めてそのよ
うな状態で家まで連れてきたのでした。その時は、もしかしたら本人も楽物を使用しているかも
しれないと思い、すぐ警察へ連れて行きました。しかし結果は陰性でした。平成 18 年のことで
す。本人はこの件をきっかけに家に戻ってきました。

 心身を安定させるため、心療内科に通い始めました。そして、スーパーでパートとして働き始
めました。その後正社員に採用され御前崎の店舗へ配属されました。その半年後、沼津へ、その
後横浜へ異動とな りました。沼津へ転勤になったあたりから、心配な感じがありました。行動
がおかしいと思うことも色々ありました。話しのつじつまが合わない、イライラしている、家族
旅行に行った夜に落ち着かず目が合わず、夜中にうなされ、尋常ではない寝汗をかく姿を見た時
は、これまでの不安に加え、いったい本人に何が起きているのかと言いようのない感情を持ちま
した。

 横浜へ異動になると、その不安はどんどん大きくなっていました。連絡が取れないことは茶飯
事で、きちんと勤まっているかといつも心配していました。その後、河口湖へ異動することにな
りましたが、それは以前の店舗で無断欠勤していたことから、地元へ返されたのだと、後になっ
て知りました。

 河口湖の店舗に勤務してから また一緒に生活していましたが、休む日もほとんどなく、勤務
時間も疑うようなほど長い働き方でした。そのうち何日も帰って来なくなりました。本人は仕事
が忙しいの一点張りで、毎日毎晩、本人へ電話したり、メールを送ったり、いつ帰ってくるのか
本当に仕事に行っているのか、昼間も夜中も言いようのない不安で、家の中はいつも緊張が張り
詰めている状況でした。

 その後、甲府方面の店舗へ異動になりました。ある日、店長さんから電話があり、2 週間無断
欠勤していることを知らされました。本人を問い詰めても、理由は全く分かりませんでした。い
つも話し合いはうまくいかず、本人の行動に、家族が疑心暗鬼な気持ちで接している状態でした。
常に家庭内は一触即発の雰囲気でした。

 その後も、休日も勤務時間も関係なく家を出て、夜中の帰宅はしょっちゅう、数日帰らないこ
とも多く、同僚だという人とある日突然帰宅し、本人のパソコンを仕事のために使うと持ち出し
その後そのバソコンも 持ち帰ることはありません。家族との外出や本人の通院などの予定もすっ
ぽかしたり、約束の数分前にやっと帰宅するなど、行動すべてが疑わしく、家族はそのことにい
つも振り回されており、気の休まることのない毎日を送っていました。

 この頃が平成 26 年 10 月頃です。すでに月日は 10 年目の後半に入っていました。
 
  この頃、本人の内臓に病気が見つかり、平成 27 年 1 月末に手術をすることになりました。
ところが、入院を控えた数日前に、用事があると外出したまま音信不通になりました。さすがに
自分の病気の手術をすっぽかすことはないだろう。それとも手術が怖くなったのか。どうするこ
ともできず、時間だけが経ちました。ところが、その 3 日後に私たちは目からうろこのような
これまでの謎だった問題行動が何であったかを知ることになるのです。

 平成 27 年 1 月 29 日夜 8 時頃、覚せい剤で本人を逮捕したと荒川警察署から連絡が来たの
です。これまでの不可解な行動も、多額の借金の使い道も、長い間まったくわからなかった。いっ
たいどこに行っているのだろうか、お金を何に使っているのだろうか、私たちが 10年余り悩んで
いたことが、薬物を使用していたことによるものだったんだということが、やっとわかったので
した。
 会社はクビになり、その後、執行猶予の刑が確定しました。

 逮捕され実刑となったことで、きっと本人も懲りるだろうと思いましたし、本人の、もう二度
と薬物はしないという言葉を素直に信じました。その時は、薬物の怖さ、薬物依存症という病気
になっていることも知りませんでした。

 本人の父は、二度目のうつ病を発症しました。

 その後、また一緒に生活しながら、別のスーパーで働き始めました。平成 27 年 10 月頃に
御殿場の店舗へ異動になりました。仕事へ向かう様子も、帰宅時間もそんなに心配ないように
感じていました。しかし数か月が経った平成 28 年 2 月、給料日に帰宅して来なかったのです。
連絡も取れなくなり、口から内臓が飛び出してきそうな不安が再び私たちの体を襲います。私
と娘で、その店舗へ行ってみましたが、不安通り、本人はいませんでした。
 
 後日、帰宅してきた際に家族で話し合いをしましたが、3 月も 4 月も給料日になると同じ行
動をし、数日間帰宅せずに音信不通となり、ある日薄汚れた身なりで帰宅するということが続
いていました。

 私たちは薬物依存の病院を調べて治療するのがよいのではないかと考えました。本人に勧め
たところ、行くとの返事がもらえ、5 月の連休明けに予約が取れました。病院の方に事情を話
した際に信頼できる人に話してもよいと言われ、思い切って本人の地元の友人2 人とそのご家
族、また、夫の友人に話をし、カを借りることにしました。

 これまで、本人の行動で世間に恥ずかしい思いをし、誰にも言えなかったわけですが、この
時に話した方々は本当に親身になってくださり、どれほど心強かったかしれません。ダルクへ
つながるまで皆さんが一緒に行動してくださり、本当に感謝しています。

 ゴールデンウィークが過ぎ、病院に連れて行きましたが、薬物反応は出ませんでした。その
まま入院できるかもしれないと期待していたのですが、一緒に自宅に戻った時には、また解決
の糸口が見つからない真っ暗なトンネルに入り込んだような心境でした。

 しかし、その後、私たちはこれまでとは異なる行動を取りました。いつも音信不通になると
しつこいほど本人へ電話やメールをしていました。それに対し本人は、いつも家族がうるさい
から仕方なく帰ってきたんだといった様子で帰宅してきました。6 月半ば頃、またいつものよ
うに音信不通になった際にこちらからのアクションは一切やめてみました。

 このことが、いよいよ本人と私たちが大きく動き出す一日となったのです。

 まず初めに起きた変化は、帰宅時間でした。いつもなら真夜中に帰ってくるのに、朝 7 時頃
に帰ってきたのです。しかも、姉に帰っておいでと言われたからと、事実と異なることを言い
出しました。その後滞在したのは短時間で、また仕事に行くと言い、家を出て行きました。と
ころが、9 時頃になると、家の前に本人の車が停まっていたのです。私は、助手席に乗り込み
いろいろ話しかけてみました。すると、誰もいない後部座席を見て、あたかも人がいるかのよ
うな様子で話すので、幻覚を見ているのだとすぐにわかりました。指摘すると、本人は慌てて
私を車から降ろし、どこかへ行ってしまいました。
 
 私は、事情を話していた本人の友人や、夫の友人に助けを求めました。皆さんがすぐに駆け
付けて来てくれました。

 新たな変化が起きました。10 時頃本人から電話がかかってきたのです。トラックが道をふ
さぎ自分が行くのを邪魔している、誰かが見ているから助けてほしいと言うのです。私は「大
丈夫だから気を付けて帰っておいで。」と、とにかく本人を安心させ、帰宅する気持ちにさせ
ようと必死でした。本人の友人も連絡を取ってくれて、本人を安心させてくれました。本当に
帰宅しててくるのか、途中事故でも起こしたらと不安でいっぱいでしたが、今できることを精
一杯やりました。

 聖明病院に電話で状況説明をし、入院させてもらえるようお願いをしました。そして、友人
たちと本人を病院へ連れていくための打ち合わせをしました。幸いお昼頃、なんとか本人が戻っ
てきたので、友人たちと私で本人を病院に連れていき、入院することができたのです。

 入院させた後、山梨ダルクさんへ自分はこれからどうしたらよいか電話をしました。その際
に、家族会に行くように勧められ、岩松さんの連絡先を教えていただきました。7 月に初めて
家族会に入れていただき、勉強させていただいたおかげで本人が不治の病になったこと、薬物
依存に対してはダルクに行くことが一番良いことを知りました。また、家族がすべき本人への
接し方、考え方もたくさん学ぶことができました。

 本人の友人、夫の友人、保護司さん、私たち家族みんなが 同じ考えを持ち、皆さんそれぞ
れが本人に会いに行き、ダルクへの道へ進むようお話をしていただきました。入院から3か月
後の 9月はじめに、夫の友人と、夫と私の 3 人で本人に面会し、私たち家族はこれまでの行
動を変えていくこと、お互い自分自 身を大切にしましょうといった内容の話を伝えました。
そして今後は家には入れないことを伝えました。

 本人はダルクへ行くことを受け入れました。

 当日は、夫の友人が退院に付き添い、羽田空港まで送ってくださり、本人は佐賀ダルクに入
寮しました。平成 28 年 9 月 23 日のことです。12 年 8 か月余りの長い道のりでした。
 佐賀ダルクに行ってから、私たち家族は本当に久しぶりに楽しく会話をしたり、冗談を言っ
たり、笑ったり、やっと普通の暮らしができるようになりました。夜もぐっすり眠れるように
もなりました。
 本人の問題にいつも振り回され、心身共に疲れ切っていました。本人に対し、ずっと死んで
ほしいと願っていました。今は、ダルクで頑張ってほしいと願っていますし、私たちも家族会
やダルクのフォーラムに参加させていただき勉強を続けていきたいと思っています。

 その後ショックなことがありました。平成 31 年 2 月 27 日に入院したとダルクから連絡が
ありました。後日、岩松さんからスリップしたことを聞かされました。特別なことではないと
学んできたつもりでしたが、いざそのことを聞くとやはりショックでした。

 「 神さま 私にお与えください 自分に変えられないものを 受け入れる落ち着きを 」
 何度も言葉にしていましたがまだまだ勉強不足を感じました。
 その後、令和元年 5 月 8 日から群馬県の藤岡ダルクへ入寮しました。

  「 今日一日 」

 この言葉の大切さを改めて実感し、一喜一憂することなく自分を大切に過ごしていきたいと
思います。

                                         HARU